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文化・歴史

会津藩士の利尻島警備

---会津藩士、利尻を護る--- 
  利尻島には3ヶ所8基の墓が残されています。利尻町は平成8年8月30日、
会津藩士の墓を移設し「会津藩士顕彰碑」を建立しました。利尻を護ってくれた会津藩士の供養と歴史遺産を保存し、利尻島史を学んでいます。
 2008年は会津藩士蝦夷地警固200年の記念すべき年となります。


開港・通商を求めていたロシアは鎖国をつらぬく日本に対し、武力行使にでました。文化3年(1806)ロシア海軍大尉フヴォストフの指揮する武装船が樺太のオフイトマリ、クシュンコタン(久春古丹)を襲撃。翌文化4年(1807)4月北海道東海岸の択捉島を襲撃して4人を捕らえ、5月には樺太を襲い、6月には利尻島沖に停泊していた船を襲撃。上陸して運上屋、番屋などを焼き払います。
  江戸幕府は文化4年に津軽・南部・秋田・庄内藩に、翌文化5年(1808)津軽・南部・仙台・会津藩に出兵を命じました。会津藩は1633名で樺太・宗谷・利尻・松前を警固しました。利尻島には番頭梶原平馬景保を隊長とし252人(一説には320人余)が閏6月1日(新暦7月23日[土])に到着しました。
  利尻島には3ヶ所8基の墓が残されています。利尻町は平成8年8月30日、会津藩士の墓を移設し「会津藩士顕彰碑」を建立しました。利尻を護ってくれた会津藩士の供養と歴史遺産を保存し、利尻島史を学んでいます。
2008年は会津藩士蝦夷地警固200年の記念すべき年となります。

【会津藩士の利尻島警固を詳しく知るために】
『利尻町史通史編』利尻町
 会津若松市史6『会津藩政の改革』歴史編6近世3 会津若松市