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利尻町立博物館

利尻島の歴史トピックス



 利尻島には旧石器時代からヒトが住んでいたと推定されています(利尻町史, 2000)。ヒトの営みの証が島内各地の遺跡や史跡に残されており、その歴史が調査・研究によって明らかにされてきました。ここでは利尻島におけるヒトの歴史から5つのトピックスをご紹介いたします。


亦稚貝塚出土物 亦稚貝塚遺跡から出土した骨角器。トナカイの角でつくられたものと考えられており、写真に写るクマのほか、クジラやオットセイなどが彫られています。

利尻島内の遺跡

利尻島内では明治時代から発掘調査が行われており、30以上もの遺跡が知られています。これらの遺跡は旧石器時代から擦文文化期の遺物が発見されており、およそ1万年前からヒトが住みはじめていたと考えられています。これまでの発掘調査では、利尻島に住んでいた人々の生活や文化、交易などを推測する手がかりとなるものも発見されてきました(利尻町教育委員会, 1977; 1978)。近年も、発掘調査のほか、過去に発掘された資料の分析等が行われており、今後も新しい発見が期待されます(柳澤, 2019; 山谷, 2021)。
 所蔵資料には、北海道指定文化財に指定されている亦稚内貝塚出土の遺物(オホーツク式土器2点、鹿角製品2点)も含まれています(北海道, 更新日不明)。

遺跡出土物コレクション(RTMHarc)


会津藩士の墓
沓形種富地区にある会津藩士の墓。樺太での警備を終え、帰還途中に遭難した観勢丸に乗船していた2名の藩士のものと考えられます。

会津藩士の北方警備

 18世紀の後半になると、ロシア人が北海道へ来航し、修好や通商を求めました。しかし、鎖国中だった日本にこれらを拒否されたことから、樺太および千島に来襲しました(北海道, 1970)。1807年には利尻島にも来襲し、食料や武器の略奪、運上屋や家屋などに放火しました(利尻町, 2000)。そこで、幕府は1808年(文化5年)に蝦夷地の警備のために東北諸藩に出兵を命じました。利尻島の警備は会津藩が命じられ、250人にも及ぶ藩士が任務にあたったと言われています。警備にあたったおよそ3ヶ月間、交戦はなく、会津へ帰還しました。しかし、病気や樺太からの帰還途中での難破などにより亡くなった藩士もいたことがわかっており、利尻島内には8名の藩士の墓碑が残されています。そのうち、利尻町種富町の2基の墓碑は、1967年に利尻町指定文化財に指定されています。
 その後、1808~1809年の津軽藩による警備、松前藩による支配地時代を経て、1855年に幕府直轄地に戻った後は、秋田藩に警備が命じられました。その後、秋田藩は1859年に領地として賜り、1867年に幕府に返還するまで支配し、警備や開拓にあたりました。秋田藩は安政4年頃に「リイシリ嶌略図」を作成しています。これは利尻島を真上から見下ろしたように描かれた絵図で、島内のアイヌ語地名のほか礼文島や抜海、ノシャップとの距離も示されたものです(西谷, 1995)。当館では本資料を所蔵するとともに、入館チケットのデザインにも用いておりますので、ご来館の際にはチケットもぜひご覧ください。


マクドナルド上陸記念碑 利尻島野塚にあるマクドナルド上陸記念碑ともに、マクドナルドの半生を描いた小説「海の祭礼」の文学碑があります。

外国人の漂着

利尻島には過去に2度外国人が漂着したという記録が残されています。
1度目は1696年(元禄9年)の朝鮮人の漂着です。8名の朝鮮人が乗った船が漂着したといわれています。船に乗っていた人のうちの一人である李志恒(いちはん) の日記「漂舟録」には彼らが日本海で漂流し、北海道、本州、九州を経由し対馬からプサンへ戻るまでの旅の様子が記録されており、利尻島と推測される場所に漂着したことや、当時の様子が示されています(池内, 1994)。
 2度目は鎖国中であった1848年(嘉永元年)、アメリカ人青年のラナルド・マクドナルドの上陸です。世界各地の旅を経て、日本への渡航を試みていましたが、当時の日本は鎖国をしていたことから、渡航は非常に困難でした。そこで、日本近海で操業する捕鯨船の乗組員となり、日本海での操業時に、ボートに乗り移って日本への上陸を目指しました。彼は焼尻島に上陸した後、その北方にある利尻島へ向かい、難破船を装って、島民に救助されたといわれています。島内で数日過ごした後、宗谷の勤番所、松前を経て、長崎へと送られました。長崎ではオランダ通詞に英語を教えたことから、「日本最初の英語教師」として知られています(ウイリアム・村上, 1979)。彼の人生はMcDonald of Oregon, a tale of two shore (Eve, 1907) をはじめ、伝記や小説として出版され、現在まで語り継がれています(例 吉村, 1986)。


ニシン漁具 当館ではニシン漁で用いられた漁具を多数所蔵しています。その一部は展示室で公開しています。

ニシン漁

 ニシンは、春季にサハリン沿岸や日本海沖から東北から北海道の沿岸に産卵のために来遊します。かつて東北~北海道では、沿岸に来遊したニシンを漁獲するニシン漁がさかんに行われていました。
 利尻島においては、1800年代後半から出稼ぎ漁業者によってニシン漁が行われ始めました。明治時代に入り、場所請負制度が廃止された後には、さらなる出稼ぎ民が来島し、集落が形成されたといわれています(利尻町, 2000)。大漁期であった大正4年には140,795石(約10万トン)もの鰊が漁獲されていましたが、大正時代後半から漁獲量は減少し、昭和30年には16,151石(約1万トン)まで落ち込みました(利尻町, 1989; 利尻富士町, 1998)。
 現在も利尻島の各地には、現在もニシン漁に使われていた漁業施設や道具が遺産として残されているほか、お祭りなどの文化にもその名残が残されています。この漁業遺産や文化は北海道遺産に選定されています。
 →北海道遺産



名誉町民に贈られた賞状。本町(利尻町)最高の栄誉であること示されています(所蔵資料SId6)。

利尻町名誉町民

社会文化の興隆もしくは町の発展に功績があった町民や元町民に、その功績と栄誉を称えることを目的に利尻町名誉町民に関する条例が制定されました(利尻町, 1963)。これまで名誉町民に推薦された方は、酒本俊平さん、井田定勝さん、山本高司さん、時雨音羽さんの4名です。

酒本俊平さん
 医学専門学校卒業後、歌志内の炭鉱病院を経て、明治45年に沓形村(現在の利尻町沓形地区)に博愛医院を開設されました。「博愛さん」として町民に親しまれていました。所得に応じた医療費の減額措置を講じるなど地域の医療福祉に貢献したほか、学校医として教育文化の推進にも関わられました。

井田定勝さん
 仙法志村村長として、利尻町の設置(沓形村・仙法志村の合併)へと貢献された後、初代利尻町町長へ就任されました。町長退任後は仙法志漁港組合長、仙法志救難所長を務められました。

山本高司さん
 卒業後は東京都理工技師を経て、高等官7等に叙せられました。山本氏は、私財を投じて沓形小学校の放送施設や緑児童公園の建設を行ったほか、学用品などの寄付や保健福祉の建設基金などを行うなど、篤志家として、故郷の利尻町の教育や福祉の発展に貢献されました。

時雨音羽さん
 沓形村(現 利尻町沓形)出身の作詞家。多数の歌謡曲や詩、随筆を発表されました。作詞された歌謡曲の一つ「君恋し」では、日本レコード大賞を受賞されるなど、流行歌の作詞家として名を馳せました。また、利尻島内のほか宗谷地区の学校の校歌も多数作詞されています。


参考文献

  • 北海道教育委員会, 更新日不明. 北海道指定の文化財一覧:https://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/bun-hogo-do-sitei.html#souya (2021年12月14日閲覧). [LINK]
  • 池内敏,  1994. 李志恒「漂舟録」について. 鳥取大学教養部紀要, (28) 61-95.
  • 小林時正, 2002. 北海道におけるニシン漁業と資源研究(総説). 北水試研報, 62: 1-8. [LINK]
  • 西谷栄治, 1995. 秋田藩勘定方「リイシリ嶌略図」について.利尻研究, (14): 39-46.
  • 利尻町, 1963. 利尻町名誉町民に関する条例:http://houmu.h-chosonkai.gr.jp/~reikidb/top/detail/2309538(2022年3月3日閲覧). [LINK]
  • 利尻町, 1989. 利尻町史 史料編. 利尻町. 利尻. pp. 650.
  • 利尻町, 2000. 利尻町史 通史編. 利尻町. 利尻. pp. 1162.
  • 利尻富士町. 1998. 利尻富士町史. 利尻富士町. pp. 1583.
  • 利尻町教育委員会. 1977. 利尻町の埋蔵文化財 利尻町埋蔵文化財包蔵地緊急分布調査報告書. 利尻. pp. 15. [LINK]
  • 利尻町教育委員会. 1978. 亦稚貝塚. 利尻町教育委員会. 利尻. pp. 141. [LINK]
  • 時雨音羽. 1976.「出船の港」と利尻島. 北書房. 札幌. pp289.
  • ウイリアム・ルイス, 村上直次郎 (編). 1979. マクドナルド「日本回想記」. 刀水書房. 東京. pp. 288.
  • 柳澤清一. 2019. 礼文・利尻島編年の新検討―その(3)亦稚貝塚から沼浦海水浴場遺跡へ―. 利尻研究, (38): 67-80. [Link]
  • 山谷文人. 2021. ペシ岬遺跡の遺物と年代について. 利尻研究, (40): 45-50. [LINK]
 

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